「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
電車の中でこのコピーを見て「?」と思った。そのときは直感的に「?」と思っただけだったのだが、きのう家にきた友達が「あれってへんだよね」と言い出し、内田樹先生もへんだとおっしゃっているので(書いてあることは半分もわからなかったけど)、私もたまには真面目に考えてみようと思った。
最初に、「あんたほんとは言葉の力なんてぜんぜん信じてないでしょ」とつっこみたくなった。コピーライターの人は、自分で信じてはいない、クライアントが喜ぶような文言をでっちあげたとしか思えない(そこはどうかわからない)。
なんでそう思ったのかな。
感情的で、残酷で、無力なものを、それでも信じるあなたはバカですか? っていうふうに見えちゃうのだ。なんかあらわそうとしていることと、このコピーの表しているものが、正確にあってないのだ。私がこのコピーから受けた印象はこんな感じ。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だとしか思えない。だからこそ、私は言葉の力を信じているふりをし続ける。そうでもなけりゃやってられるかい、ジャーナリズムなんてそんなもの宣言」
元コピーと、私の受取った印象とのギャップはなんなのだ。だんだん「?」の正体が見えてきた。
まず主語。言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ、と思っているのは、誰なのだ。あんたでしょ、朝日新聞。あたしじゃないよ。勝手に決めないでよ。
そして「それでも信じている」と続く。「それでも」というからには、感情的で、残酷で、無力なのはいけないことだと言ってるわけですよね。感情的で、残酷で、無力なのっていけないことなのかな。みんながみんな疑いもなくそう思ってるかのように断定されるのには違和感を感じる。
私は言葉が人間を作ることを知っている(と思っている)。言葉が人を、その人があるべき姿に導くことも知っている(と思っている)(必ずしも聡明でエレガントな姿ではなかったとしても)。すごく素朴な感覚かもしれないけど、私は、暴力的でも、感情的でも、無力でも、残酷でも、そのこと自体が言葉の持っている力なのじゃないかなと思うのです。それは全部、人間のやっていることだから。言葉できれいな感情が起こるのと、一方で醜い感情を起こす力を言葉が持っていることとは、裏と表に分けることさえできない、言葉の持っている性質なんじゃないかなと思う。生活のレベルではなく、もっと広い意味で言葉というものを考えたとき、いい言葉と悪い言葉を分けるのは全く意味がないと思う。生活のレベルで言葉の良し悪しについて言うんなら、誰がそう考えたかという主語や、どういう状況でそう思ったかという背景がないと、もめごとの元になりそうだ。価値観は人それぞれだから。
まあそれは私の考えだから、みながそう思わなくてもいいわけなんですけど、朝日新聞のコピーには違う考えの人もいるってことが、受け入れられる余地がないですよね。ある考えを、他人もそう思うだろうと勝手に決め付けてるようなところが、ちょっと幼児的な感じがします。まして、問題になっているのが「言葉」である以上、言葉に対する考え方(=言葉)はいろいろあるみたいだよってことに、ここまで鈍感なのはちょっとどうかなーと思う。そして、自分でも信じていないことを「それでも信じている」と無理やり言い切っちゃうところが、ナルシシズムが健康的に働いていないというような感じも受けます。
いえ、幼児的な人がいてもナルシストの人がいてもいいんですけどね、ほんものの幼児ならそりゃ幼児らしくしてるでしょうよとか思うしね、でも朝日新聞の場合は、ジャーナリズムを宣言しちゃうくらいなんだから、その幼児性が立派なことだと思ってるわけでしょ? それおかしいよ。やっぱり。
今日のところはここまで考えました。なんだか言い足りないこと、正確さに欠けるところがたくさんあるような気がするけど、一応、書いてみた。読み直してみて、私はまだ、言葉についての自分の考えに、自信がもてないでいるということがわかった。なんかどんどん城戸熊太郎化してる気がするな。私はずうずうしいので生き延びるつもりですが。
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